伝説の料理人 −三國清三−

フレンチの日本人シェフといえば…?となると、

世代にもよるかもしれませんが、テレビ番組の「料理の鉄人」にフレンチの鉄人として出演していた坂井宏行氏を思い浮かべる方が多いかと思います。
最近では、料理の鉄人の復活番組として放送された「アイアンシェフ」でフレンチのアイアンシェフとして出演していた須賀洋介氏も有名です。

しかし、フレンチの日本人シェフといえば…?という議題に、この2人にも負けず劣らず、必ず挙がってくる料理人がいます。


その名は、三國清三。
フランス料理会、よもや料理の世界では三國清三の名前を知らない料理人はいないといわれるほどで、大袈裟でもなく「世界のミクニ」とも呼ばれているカリスマ的存在です。

今回は、伝説の料理人シリーズ第一回目としてフレンチの巨匠、三國清三氏についてお話ししてまいります。

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料理の神に愛された男、三國清三とは

「世界のミクニ」ことフレンチの料理人、三國清三氏(以下、三國シェフ)は1954年8月10日、北海道の日本海側北西に位置する増毛町(ましけちょう)というところで生まれました。

札幌グランドホテルで飲食の仕事を始めて、帝国ホテルでの2年間の修行を経て、若干20歳でスイスの日本大使館のコックを務めます。

その後、フランス各地の三つ星レストランで技術を磨き30歳で独立して、東京の四谷にてフレンチレストラン「HOTEL DE MIKUNI(オテル・ドゥ・ミクニ)」を開業します。
現在(2020年11月)では、オンラインショップも含めれば支店は全国に14店舗あります。

店舗運営だけでなく日本または世界でイベントを積極的に開催しており、自身の料理すなわち、日本のフレンチを広めていくことで、三國清三という存在が知れ渡っていきます。

そこから日本人では初のフランス最高勲章のほか、世界料理コンクールの審査員といったすばらしい経歴を多く持っており、「世界のミクニ」といわれるようになりました。

66歳になった現在も、飲食店の経営のほか、東京オリンピック・パラリンピックの委員会顧問として料理人の教育や指導をおこなったり、調理師専門学校だけではなく小学校などでも食育のセミナーを積極的に開くなど、幅広い分野で活躍しています。


三國シェフのエピソードまとめ

次に三國シェフの経歴ごとのエピソードを紹介いたします。

彼が飲食の世界に入ろうと思ったキッカケから始まり、挫折を味わいながら大きなチャンスを得て、有名シェフへの道に進んだ経緯など、様々な興味深いエピソードがありましたので、順を追ってお話しします。


研ぎ澄まされた味覚に鍛えてくれたのは、ホヤのおかげ!?

彼の父は漁師、母は野菜を作っており、三國家の食は基本、自給自足だったのだそうです。

とくに増毛町は、海に面しているため海産物の宝庫で貧乏だったとはいうものの、食に関しては恵まれていたので困らなかったんだとか。
そして、この環境のおかげで三國シェフの舌は養われていきます。

その中でも、「ホヤのおかげ」と彼はよく言うそうです。


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ホヤ(海鞘)とは、北海道・東北地方でよく獲れる海産物で見た目から「海のパイナップル」ともいわれています。
ホヤ貝ともいわれるので、貝の仲間と思われている方もいるかもしれませんが、実際には貝ではなく、かといって魚でもなく一般的な動物、脊椎動物の一種になります。

クセのある味なので好みが分かれる珍味ともいわれていますが、三國シェフ曰く「ホヤは唯一、五味(甘味・酸味・塩味・苦味・旨味)を全て感じることができる食べ物」ということで、少年時代によく食べていたホヤのおかげで味覚が研ぎ澄まされたのだとか。

ちなみに、この五味のお話ですがフランスの研究では、五味を感じることが五感を開花させるともいっており、さらに12歳までに五味を体験していない児童は体験している児童と比べると感受性が乏しいという結果も出ているようです。

料理人を目指している方はホヤを食べた方がいいのかもしれませんね…!?


フレンチの世界に入るきっかけは、毒入りハンバーグ!?

中学を卒業し、「手に職をつけたいから料理人になるぞ」という想いから、調理師学校で勉強するために札幌へ。
札幌の米屋に丁稚奉公して、日中は米屋で働き、夜は学校で勉強する生活が始まります。

そして、あるときの食卓で栄養士をしている米屋の娘さんが作った黒いソースがかかった肉の塊の料理が出されるのです。


当時の三國少年は海産物をたくさん食べてきましたが、環境上お肉を食べることが滅多になかったので、これが「ハンバーグ」ということもわからないですし、「ハンバーグ」という言葉も知らなかったのです。

さらに今まで「黒い食べ物は毒だから食べるな」という家訓の中で育ってしまっているので、この時の彼は「黒い。毒が入っている。食べたら危険だ」と思ってしまったのです。

だけど、どんどんお腹は減る一方だし、まわりの人は美味しそうにそれを食べている…。
そんな葛藤の中、ついに少年は肉の塊に箸を入れるのです。

すると、その肉の塊は肉汁が溢れ出し、黒いソースは甘酸っぱい。そのソースをつけて食べた瞬間に未知との遭遇をするのです。

「自分もこういう料理を作りたい」

ハンバーグに衝撃を受けた少年は、そう思ったそうです。
そして、米屋の娘さんは言うのです。

「札幌グランドホテルのハンバーグは私のより100倍美味しいよ」と。

毒が入っていると思っていた肉料理との出会いこそが三國少年を洋食の世界、フレンチの世界への扉を開けたのです。


不可能を可能にした!中卒から札幌グランドホテルの正社員に

ハンバーグの魅力に取り憑かれた三國少年はもう、「札幌グランドホテル」で働きたくてしかたありません。(笑)

しかしながら、札幌グランドホテルは高卒以上じゃないと入れません。
つまり中卒では入ることが不可能なのです。

コネもない、紹介もない。
どうしたものかと思っていた矢先に調理師学校の卒業記念でテーブルマナー講座を受ける話がありました。

その場所はなんと、、札幌グランドホテル!この少年、もってます!

チャンスはここしかないと、三國少年は講座最後の厨房見学の時間にある行動にでます。
それはなんと…

洋食セクションのキッチンにずっと隠れて、タイミングを見計らい出てきてスタッフに必死にお願いをした

というのです…!なんという行動力…!

そしてお願いしていたスタッフさんの正体はなんと、初代総料理長の息子さんで偉い人だったという奇跡も重なり、パートの仕事ではありますが従業員食堂の飯炊き係として働くことになるのです。

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飯炊きひとつ取っても、ホテルの従業員は何百人もいるので、凄まじい量のご飯を炊くので仕事量もすごいはずですが、ここで働くことができると喜んでいたパートの少年は、がむしゃらに働きました。

その様子をみていた初代総料理長の息子さんは、その少年を人事課に連れていき、特例中の特例として、中卒ながら正社員に昇格したのです。
もう、漫画みたいですね!

正社員になった後は、仕事が終わった後も朝6時まで料理の練習をする日々を続けて、18歳の時には全ての仕事ができるようになっていて、メインダイニングの総料理長の代わりに仕事をこなすまでになっていたのです。

実力主義だからこそのモチベーションの高さと続けた努力ゆえの結果ですね…!


日本一の帝国ホテルでの仕事は、2年間ひたすら洗い場担当!?

もっとレベルの高いところでやってみたい。一流のところはどこだろう、やはり東京かな…?と、探していると日本一のホテルは「帝国ホテル」だと知ります。

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ここだ。ここで働きたい。

この気持ちを汲み取った札幌グランドホテルの総料理長はなんと、帝国ホテルへの紹介状を用意してくれたのです。

紹介状をもっていざ、単身で東京へ。
しかしそこには、厳しい現実が待っていました。

当時の帝国ホテルは誰もが認める日本一のホテルだったゆえに全国から応募が殺到していたので、すぐに料理を作る仕事には就けなかったのです。

それは、札幌グランドホテルの料理を一通り学んできた18歳の三國氏も例外ではありませんでした。なんと、順番としては42番目。

でも、彼は待つしかなかったのです。
下ごしらえや盛り付けができる機会はあるものの、料理といえる料理を作れず、ひたすら洗い場の仕事をこなす毎日が続きます。

しかし、順番が42番目の洗い場担当には、いつになっても声がかかりません。
待ちに待って時が経ち、ついに20歳を迎えてしまいました。

どんだけ頑張っても報われないんだな…もう、辞めるかな…。

しかしながら何を思ったのか、俺はここで働いていたんだぞという承認欲求を満たしたいが故なのか、この時から毎日ホテル内全てのレストランの鍋磨きを始めました。
辞めようと思い、折れながらも腐らずに一生懸命仕事はしていたのです。

さぁ、ここからが漫画的展開です…!

鍋磨きの日々を続けて3ヶ月ほど経過していたある日、当時帝国ホテルで絶対的地位を持ち、神様といわれていた村上総料理長から料理長室に呼ばれます。

あぁ、ついに俺もクビかぁ…そうかぁ…なんて心の中で思っていたのに、村上総料理長は一人の洗い場担当に向かって、こう言いました。

「年明けから、スイスのジュネーブにある日本大使館のコック長になってくれ」

ど、どういうこと!?ってなるくらい、目の玉が飛び出すくらい訳がわからない展開。
さらに、村上総料理長は

パートタイマーなのに腐らずやる気があって、いい意味で欲があった。
鍋の洗い方を見れば、人格がわかる。
こいつに任せれば大丈夫だと思える人格だった。
そして、仕事に関しても要領とセンスが良かった。
なにより、塩の振り方がうまかった(塩振り3年といわれるように、塩の振り方が上手くないと一流の料理人といえない)。
だから、料理を作ってなくても、腕前はわかる。

と、そういった理由からひとりの洗い場担当を推薦したようでした。
彼のこうした姿を、神様はずっと見てたんですね。


やるっきゃない…!フランス料理だけでなく、懐石も勉強

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そして、弱冠20歳のシェフがスイスのジュネーヴへやってきました。
もう、やるという選択肢しか残っていません。やるっきゃありません。

当初、大使館側からは猛反対があったなか、村上総料理長の強引な推しにより決まった今回の一件。
2年くらいで後任に変えようと、当初の大使館側は長く任せるつもりもなかったようでしたのが、三國シェフからすれば「見返してやる」と燃える要素で、自分に課す良いプレッシャーだったかもしれません。

しかしながら、本格的に料理をするのは実に2年ぶり。
さらに、「日本」大使館ということで洋食だけではなく、和食も作らなければ…とやることはたくさんです。

そこで彼は、ジュネーヴの和食料理屋に訪れて頭を下げ、懐石料理について学んでいきます。
さらに、各地の有名フランス料理店にも訪れて、言葉が通じない中でも必死で教えを乞いました。

ここも運が良かったのか「大使館の料理人が店に勉強しに来ている」ということがお店側にも宣伝効果があり、どのお店も丁寧に教えてくれたのです。
そして、三國シェフはこの学びで今後の自身のお店の業態ともなるフレンチを初めて本格的に学ぶことになりました。

これらの努力の成果はすぐに出ました。
大使館でのパーティで出される三國シェフの料理はお客さんの間で非常に評判が良く、2年を過ぎた頃には、「どんな条件でも呑むから、ここにいてくれ」と逆に大使館側からお願いがあったほど。

しかし、彼は「もっとすごいフレンチを学んでいきたい」と、他のお店で修行がしたい気持ちが強くなっていくのです。


三國シェフの料理の礎となった料理人たちとの出会いが凄すぎた

パーティに良き来てくれるお客さんが「ローザンヌにすごく美味しいお店があったんだ」という話を聞いて、彼は汽車で1時間ほどで行けるスイスのローザンヌへ向かいました。

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お客さんの情報を頼りに着いたそのお店はなんと、当時はまだ無名でしたが、その後は「スイス銀行の金庫を破るよりも、ジラルデのお店を予約する方が難しい」なんていうジョークがあるくらいの人気店となって、20世紀最高のフランス料理人として讃えられる伝説の人物、フレディ・ジラルデ氏のレストランだったのです。

三國シェフはこのお店の料理もですが、ジラルデの料理に対する凄まじく尖った熱量に感動します。
そして、言葉は伝わらないながらも自身も熱意を持って、当日その場で「ここで働かせてくれ」と懇願したのです。

もちろん、最初は断られましたが、彼は全然帰らずにひたすらお願いをし続けます。3時間も。(笑)
そこで、ジラルデは1週間という期限つきで働いていいと条件をつけて、ようやくOK が出ました。

そこから大使館での夏休みを利用して1週間、鍋磨きなどの雑用ではありますが必死に働き続けました。
そして、1週間過ぎる頃にはジラルデ本人から「以降、ここに来るかはお前の自由だ」と言ってもらい、平日〜土曜日は大使館、日曜日はジラルディのお店で働く日々が始まります。

あの熱意の強かった三國シェフですら大変な日々だったと思っていたそうですが、ジラルデからの「来る以上は、お前をあてにするからな」という言葉が支えてくれたんだとか。

そして三國シェフは大使館の仕事を辞めて、本格的にジラルディのお店で働くことになり、ジラルデの技術、料理に対する考えをしっかり学んでいきます。
ここで学んだことは、今の料理の作り方に大きく影響を与えました。

日本を出て5年が経ち、そろそろ日本に帰るか?と思いつつも、ジラルデのことしか知らないのではバランスが悪くなってしまうという考えもあったので、ここで初めてフレンチの本場、フランスへ向かうのです。

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そこで最初に修行したところは、50年連続でミシュランの三つ星を獲得した「トロワグロ」というお店でした。
ここでは「ソース作りの天才」といわれた料理人、トロワグロ兄弟から学びます。

その後も「オーベルジュ・ドゥ・リル」のポール・エーベルラン氏、「ロアジス」のルイ・ウーチェ氏、「アラン・シャペル」のシャペル氏といった、三つ星を獲得したレストランのシェフからジラルデとはまた違った料理の技術・演出・考えなどを学びました。

ジラルデを含め、世界的に有名な多くの有名料理人たちとの出会いが三國シェフを大きく成長させて、自身の料理の礎となったのです。


世界のトップシェフの一人として選ばれ、日本の料理人で初のフランスの最高勲章を受勲

帰国後、30歳で独立して「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープンした三國シェフ。
後ほど詳しくお話しするものとして、彼が作る料理のベースはもちろんフレンチですが、母国である日本の伝統を取り入れたものなので、当時の日本人フーディからは「こんなのがフレンチと呼べるものなのか!?」とかなりのバッシングを受けたんだとか…。

そこで三國シェフは世界に評価されれば日本でのバッシングも無くなるはずだと、自分のお店の経営するだけではなく、世界各国で「ミクニフェスティバル」を開催しました。
ロンドンで開催した時にはエリザベス女王が来訪して、自身が作った料理を食べてくださったそうです。

こうして海外でどんどん評判を上げていった後に日本からのバッシングもなくなり、開店から2年が経った頃に、ルレ・エ・シャトー協会に加盟します。

ルレ・エ・シャトーとは1954年にフランスにある8つのオーベルジュが設立したホテル・レストランの協会組織です。
加盟条件は非常に厳しく、フランスの三つ星レストランなら必ず加盟しているといわれており、ここに加盟していることは一流レストランの証なのです。

ルレ・エ・シャトー協会に加盟できたのも、ここを設立した6人のシェフの元で働いていた経緯があったからです。
その中で設立者たちによる「三國のお店を入れよう」という動きがあり、日本料理店以外で初めて加盟が許されたのです。

これだけ聞くと、忖度があったのでは?なんて思う方もいるはずです。
しかしながら、ルレ・エ・シャトー協会が企画した「世界のトップシェフ60人」や「世界5大陸トップシェフの5人」の中に三國清三氏を挙げていることから、何も忖度なく実力で三國シェフを選んでいるといっていいでしょう。

これだけの実績でも「世界のミクニ」なのですが、中でも当時すごいニュースになったのはレジオン・ドヌール勲章の受勲です。
この勲章は1802年にナポレオン1世が創設したフランスで最も名誉ある勲章で、日本人で受勲されたのは政治家や芸術家がほとんどですが、料理人では三國シェフが初めてで、以降受勲している料理人はいません。


どの名刺を使えば良い!?多彩な活動で、とにかく肩書きが多すぎる

三國シェフは前述の通り、自分のお店の経営だけでなく様々なイベントを開いたり、世界のトップシェフに選ばれることで、地域・組織団体・国から依頼、任命を受けています。

おそらくもっとあるとは思いますが(笑)、調べた中では以下のものになります。

BOCUSE D'OR 料理コンクール 日本代表審査員長
津和野町 森の恵みの食大使
北海道食大使
日本フランス料理技術組合代表
九州・沖縄サミット福岡蔵相会合 総料理長
北海道スローフード協会 支部役員
みなと気仙沼大使 ホヤ大使
冷凍食品協会 冷凍食品アンバサダー
三重県 みえの食国際大使
知床羅臼町 昆布・うに大使
知的財産戦略本部コンテンツ専門調査会委員
島根県浜田町 はまだ食の大使
しものせき海響大使
北海道ウタリ協会 北海道白老アイヌ食文化大使
京都府文化観光大使
文部科学省「新しい日本の創造を考える研究会」講師
能登わじま食の大使
文部科学省初等中等教育過程課「家庭、技術・家庭、情報専門部会」委員
ふくいの食アンバサダー
フランス トゥール大学 美食学の名誉博士号
高知県観光特使
東京ブランドアンバサダー
江差観光ふるさと大使
備前市特別観光大使
北海道増毛町大使
ラグビーワールドカップ2019組織委員会 顧問
東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 顧問

こうしてみると、地元北海道が多いのはもちろんですが他の地域でも食の大使をされているのがわかりますね。

pixta_38464306_M.jpg また、トゥール大学での美食学の名誉博士号は世界で4人にしか贈られていない、その名の通り非常に名誉あるもので、三國シェフ以外で選ばれているのはスペイン・スイス・ベルギーの三つ星レストランで働くシェフです。

上記でもわかる通り、料理人としてだけではなく、多くの活動をしている三國シェフ。
活動が多いということは作られた名刺も多いので、きっと名刺の管理も大変に違いありません。(笑)


三國シェフが作る料理

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皿の上に、僕がある。 素材は、僕だ。 お皿の上で、ストーリーにする。

これらは全て、三國シェフの言葉です。
まさに彼の作る料理はこの言葉通り、といっても過言ではないでしょう。

三國シェフの料理はフレンチをベースとしていますが、味噌や醤油に鰹節、昆布、お米や納豆など日本の調味料や食材を使った料理が多いのが特徴で、時には洋風の食材を一切使わないで、フレンチを作ることもあるくらい自由度が高いです。
しかしながら、ちゃんとフレンチになっているのが三國シェフのすごいところですね…!

また、使う食材について「東京は食材の宝庫だ」と公言していて、「江戸東京野菜」をはじめ、東京でつくられた米・肉・魚・果物・調味料なども使って調理しています。

そしてメニューの考案ですが、これもまた独特です。
食材のチェックをおこないながら、その食材の前でインスピレーションを働かせて、その場でメニュー、レシピを組み立てていくのです。

これは、彼の師匠にあたるジラルデ氏がおこなっていた即興「スポンタネ(フランス語でありのままという意味)」を受け継いだものであり、前述の言葉通り「これが三國だ!!」といえる料理を提供しているのです。
このスポンタネで、およそ3時間でメニューを考えて構築し、この作業を毎月30年以上続けています。

しかし、歳を重ねるに連れて、前に比べれば感性が衰えていると三國シェフは言いますが、常に新しい時代の若者の感性・考え方を柔軟に受け入れることによって、今まで培った経験と融合させて、また新しく進化した料理ができるといいます。

そう、彼が作る料理とは、型にとらわれず変化を恐れない、自由度の高い三國清三 自身を表現したものなのです。


三國シェフの現在

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そんな三國シェフも今では66歳(2020年11月現在)。
近況でいうと、前述でも紹介した東京オリンピック・パラリンピックの顧問として活動しています。

現在、コロナウイルス感染症の影響で2020年開催ではなく延期となったオリンピックですが、国産の食材のみを使うという縛りの中で日本の食文化の多様性をアピールする最高の機会として、三國シェフは燃えています。

さらに興味深い話として、1964年に開催された東京オリンピックでは選手村の料理長を勤めたのはなんと、当時帝国ホテルの総料理長、村上シェフだったのです。
これもなにかの縁なのでしょうか…。

もちろん、三國シェフだけの力では到底成し遂げられることではありません。
1,500人ほどのシェフが必要とされているので、三國シェフは全国各地で勉強会を始めており、料理人の教育に励んでいるのです。

さらに教育ということで話をつなげると、三國シェフは子供たちへの食に対する教育にも力を入れています。

「KIDSシェフ」という食育教室で、味覚を育てる授業や地元の食材を使って一緒にコース料理を作ったりなど、全国の学校を行脚して味覚や食の大切さを伝えているのです。

地位やお金は望まず、欲を出さず、常に自然体。
現在も三國シェフは特に以前と変わらないスタンスで、料理の世界だけでなく、日本全体に深く関わっているのです。


まとめ

いかがでしたか?
今回は伝説の料理人シリーズの第一回ということで誰にしようかと非常に迷いましたが、

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この本に出会って、一回目を飾るのはこの方しかいないと思いました。(笑)

この本は1986年に出版された古い本ですが今もなお人気の本で、有名通販サイトではプレミア価格で売られています。
そして、今では主流となっている料理を上から撮る手法(TOP VIEW)はこの本が初めてなんだとか。

いろいろ三國シェフについて書かせていただきましたが、見習いたいと思えたのはなんといっても、「熱意」と「努力」ですね。

奇跡的な漫画のような展開がよく起こっている三國シェフの人生ですが、この背景には彼自身の凄まじい熱意と努力があったからこそではないでしょうか?
そして、こうした熱意と努力が未来のトップシェフを生むんだなとも思えました。

三國シェフみたいな料理人になってみたい…、こんな風に熱意を持って仕事がしたい…、もっともっと技術を磨きたい…、一流シェフの元で学びたい…と思っているそこのアナタ!

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小学6年生の時に某テレビ番組の取材で有名ホテル総料理長に出会い食の世界に魅了されて、中学2年生の時に海外派遣団に参加。シンガポール及びマレーシアへ訪れた際に海外の食を知る。高校1年生から単身カナダへ渡り世界の食に触れ、帰国後は飲食人としての人生をスタート。複数の飲食店でのアルバイトを経験し、新卒で居酒屋リーディングカンパニーの人事労務に勤める。上場及び未上場の飲食企業複数社にて、人事、新卒及び中途採用、教育、経営企画、株式上場などの責任者(部長・局長)を歴任。面接人数は8,000名以上、各専門学校にて就職ガイダンスの外部講師として講演活動も積極的に行っている。

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